全54帖からなる超大作の中で、「須磨」(十二帖)「明石」(十三帖)から筆を起こしたとされる。琵琶湖畔の石山寺で、湖水に映った十五夜の月から物語の着想を得た筆者は、まず須磨・明石から書きとどめたと、14世紀の注釈書「河海抄(かかいしょう)」は伝える。
政敵の娘で帝の婚約者だった女性と関係をもった光源氏は、罪を意識して、当時畿内の辺境だった須磨へ身を引き、憂愁の日々を過ごす。しかし明石では土地の娘と結ばれて子までもうける。そして都へ戻ると一転、栄達の階段を上る。
国文学者の中西進さん(91)は「光源氏は須磨で精神の極北を経験し、明石で新たな生を得て復活する。この死と再生こそ、物語の大きな核なのです」と話す。
父・桐壺院の死去により後ろ盾を失い、加えて政敵の娘であり朱雀帝に入内(じゅだい)予定だった朧月夜(おぼろづきよ)の君との密通が発覚し、追いつめられた源氏は、みずから須磨に退去。ひなびた家で、都での生活や、残してきた女性たちのことを思い浮かべては涙に暮れる日々を送る。
作中、光源氏の侘(わ)び住まいは、海から少し離れた山中にあったと記されているが、実際に須磨海岸から背後の丘陵地へ数百メートル進むと、「現光寺」(神戸市須磨区)という古刹(こさつ)が建っていた。
古来、光源氏の旧居跡と語り継がれてきた寺で、境内の「源氏寺」と刻まれた石碑がその名残をとどめている。平成7年の阪神大震災で被災したが、復興後、源氏物語絵巻を模写して襖絵とするなど、伝承を大切に守り続けている。
源氏物語はもちろんフィクションだが、中西さんは「物語の舞台が大切にされることは、作品の力を示すもの」と指摘する。現代アニメの舞台を訪ねる“聖地巡礼”も、あながち若者の流行というだけのものではなさそうだ。
それにしも、なぜ須磨なのか。物語で、光源氏が謹慎生活を送った住まいは、平安初期の歌人・在原行平(業平の異母兄)が須磨に蟄居(ちっきょ)した際の家の近くだったとされる。行平は源氏のモデルの一人だったようだ。
加えて須磨は、その地名の由来が「畿内の西の隅」のスミが転訛(てんか)したものといわれる。「光源氏は畿内の果てまで来て、心の死を迎えた、といえるのではないでしょうか」と中西さん。
<出典>
https://www.sankei.com/west/news/201023/wst2010230002-n1.html